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DATE: CATEGORY:細野晴臣
2011年5月29日 ETV特集 細野晴臣 音楽の軌跡 ミュージシャンが向き合った「3.11」


細野晴臣 音楽の軌跡
~ミュージシャンが向き合った「3.11」~

この番組は2011年5月29日にETV(NHK)でオンエアされました。
番組では、細野さんと共に時代を走ってきたクリエイターたちが、その時代を振り返り、細野さんの功績を証言します。

この番組収録時(都内ロケ)に細野さんと原田知世さんが東日本大震災の大地震にあい、その後、音楽家としての生き方に悩み苦しむ細野さんの姿が、描かれています。

このブログでは、オンエア内容を一部テキストにしてみました。
誤字・脱字はご容赦ください。

証言者:

松本隆(作詞家・はっぴいえんどのメンバー)、
松任谷由実(ミュージシャン)、
坂本龍一(ミュージシャン・YMO)、
高橋幸宏(ミュージシャン・YMO)、
中沢新一(人類学者)

対談:

小山田圭吾(ミュージシャン・コーネリアス)
岸田繁(ミュージシャン・くるり)
ナレーション:原田知世

それでは・・・・

~東京青山Cay ステージ ~

(語り)原田知世:

震災から1カ月 

日本の音楽シーンの先頭をを走り続けた音楽家、細野晴臣さんが、震災後初めてステージに立ちました。

細野晴臣:

とにかく一カ月も、経っちゃったなって思うんですけど、地震の日以来 僕 音楽に全然触れてなくて。
今日は・・・初めてかなぁ・・・

僕は外にいたんです。
ちょうど、今日も入ってますけど、ETVのカメラがまわってて
原田知世さんと一緒に、白金の自然教育公園というところにいて。

ちょうど、そこに入ろうという、そういう あれでしたね・・・。

(語り)原田知世:

経験したことがない、大きな揺れでした。

地震を経た今、ミュージシャンは生き方が問われていると、細野さんは感じています。

細野晴臣:

音楽家はどうやって暮らしていけばいいんだろう・・・っていうね。
んん・・・

ずっと考え続けるっていうか、こう、基本的な生き方を決めなきゃいけない。

そこまで 考えてますね。

~関係者の証言~

(語り)原田知世:

細野さんは63歳
40年以上にわたって新しい音楽を生み続けてきました。

1970年、ロックのサウンドに初めてオリジナルの日本語詩をのせ、音楽シーンに衝撃を与えたバンドはっぴいえんど」を結成しました。

証言
松本隆:

発明に近いですね、あの感覚って。

(語り)原田知世:

細野さんはユーミンとともに作り上げたサウンドはニューミュージックという新しいジャンルを生み出します。

証言;
松任谷由実:

全く 無い音楽だったと思います。

(語り)原田知世:

YMO
誰も聴いたことが無かったテクノポップ

コンピュータを大胆に導入し、世界へ進出しました。

証言;
高橋幸宏:

音楽に対して、とにかくやりたい事のために邁進してた。

証言;
坂本龍一:

日本のポップ、ロック、あるいは歌謡曲や、全体を含めて二段も三段も底上げした人です。


~ 「アンビエント」「ワールドミュージック」「エレクトロニカ」~

(語り)原田知世:

その後も「アンビエント」「ワールドミュージック」「エレクトロニカ」

決して、同じことを繰り返さず、音楽で時代を導いてきました。

そして、今・・・・

終戦の2年後に生まれた細野さんは、自分と音楽を見つめ直しています。

細野晴臣:

なんか、原点はやっぱり 戦後の・・
んん・・・やっぱり敗戦っていうことかな。

そういう中から生まれてきた 物なんで。
僕もそうだし、音楽もそうですね。

~ 対談 vs.小山田圭吾 ~

(語り)原田知世:

そんな細野さんが 音楽と人生を 
若い世代のミュージシャンと 語り合いました。

細野晴臣:

やること 一杯あるでしょう。
やりたい こと

小山田圭吾:

まあ、ありますけどね。
んん~

細野晴臣:

僕もやりたいことの一割くらいしか 出来ない
音楽も根が絶えちゃうっていう危機感が、僕はあるんで・・・

小山田圭吾:

僕も葛藤の間にいます。

~ 震災後 ~

(語り)原田知世:

細野晴臣さん 63歳

時代の先端を
音楽で切り開いてきた彼の軌跡をたどり
今、何を考え
どう、音楽と向き合おうとしているのか

震災からの二か月を追いました。

~ 震災後 一カ月 ~

(語り)原田知世:

桜が満開になった4月10日

東日本大震災から一カ月が経ち
東京は少しづつ 日常を取り戻していました。

(東京青山Cay ステージ)

細野さんは、この日
震災後初めてのライブの準備をしていました。

節電が呼び掛けられる中
ライブは徹底した省電力で行われました。

楽器も できるだけ電気を使わないアコースティックな編成

照明も極力抑え
ろうそくの火が灯されました

楽器を触るのも
自分で歌うのも
震災以来 一カ月ぶり

リハーサルで
呼吸を整えていきます

細野晴臣:

(ライブ前)

変わったんですよね たぶん

もう、あの日以来 変わったっていうのは
ずーっと感じてる事で

まぁ いつもの気持ちで
やれればなと 思うんですけど

やっぱり いつもの気持ちにはなれなくて

そういう話を いっぱいしたいなっていう
みんなで(笑)

(語り)原田知世:

震災後 細野さんがどんな言葉を発し
どんな音楽を奏でるのか

たくさんの人が集まりました。

細野晴臣:

(東京青山Cay ステージにて)

アテンション・プリーズ

(場内 拍手)

札幌から来てた人 いるでしょ?
大丈夫だった?

札幌 大丈夫?

(語り)原田知世:

震災の日に 何をしていたのか
そして、どう感じたのか
ステージで 皆に聴き始めます。

細野晴臣:

どうですか?(アコーディオニストに向かって)

コシミハル(アコーディオニスト):

なんかね、音楽やってて 何の疑いもなかったんですよ

"あれっ?"て 初めてですね
地震で なんかね、凄いむなしくなっちゃったんです


(語り)原田知世:

そして 細野さんは
自分のことを 話し始めました。

細野晴臣:

小学校の時に 
アメリカの 水爆実験で

ビキニ環礁っていう所で
そこで、水爆実験やって

それが、拡散したんですよね
放射能が

ちっちゃい頃遊んでると
お母さんたちが 駆けてきて

「黒い雨が降るよ」 と

「ストロンチウム90が降るよ」と

放射線が一杯 東京にも漂ってたわけで
そういうことが、これからずーっと続くんで

ミュージシャンとして どうするか、と

ええ・・・・

終わろう(笑)
話が長くなっちゃうから・・・
どうしよう 終わんない

(語り)原田知世:

この日は結局 2曲しか歌いませんでした。


~ 対談 vs. 岸田繁 ~

(語り)原田知世:

ミュージシャン 岸田繁さん 35歳
同じ音楽家として 細野さんを尊敬しています。

岸田さん率いるバンド "くるり"は京都出身
繊細な歌詞と曲作りで 高い評価を受けています。

細野さんも 震災の後 若いミュージシャンと話がしたいと考えていました。

岸田繁:

京都も ちょっとだけ 揺れて・・・

細野晴臣:

揺れたの?

岸田繁:

みたいなんですけど 僕気付いてなかって
最初に あのNHKのニュース
あれを見て・・・

まずは、ちょっと自分の中にあるもの 整理をしないと

細野晴臣:

ああ なるほどね・・・・

岸田繁:

あかんな と思って
僕 音楽しか やっていないから

音楽をやってる その理由みたいなもんとか
そんなん考えて普段やらないですから

・・・・・

やっぱり 僕も音楽聴けなくなって
やれなくなって

結構 色んな事考えて
一カ月くらい 過ぎていきました。

細野晴臣:

とにかく その2月に 自分のソロのマスタリングが完成してね
4月20日に出るって決まってるわけ

その間にこういう事があったんで
出るのが延期になるのかなと思ったら なんない訳だね

岸田繁:

んー んー

細野晴臣:

こんな時に出るんだと
いう戸惑いが凄くあってね

岸田繁:

はい・・・

細野晴臣:

そういう時にやっぱり 考えちゃうわけだよね
同じように 自分の音楽の やってる意味とか
無力感とかね

だからね、出て みんなが聴く時の
怖さといったら ないね それはね

自分の なんだろう

自分のまんまが出ちゃうっていう
感じがしてたんで・・・

(語り)原田知世:

40年以上 自分の音楽を追求してきた細野さん
その人生で どんな音楽に出会ってきたのでしょうか

■ 少年時代とアメリカ

(語り)原田知世:

この日 地震にあう前
細野さんは 私に 

子供の頃聴いた音楽の話をしてくれていました。

(3/11 東京白金台 ロケ現場にて)

細野晴臣:

街には、"お富さん" 床屋さん いつもラジオかかってるんで
みんな 歌ってたね

"♪ 粋な黒塀 見越しの松に・・・”

意味が判らない(笑)

原田知世:

そうですよ、"死んだはずだよお富さん"ですよね(笑)


(語り)原田知世:

終戦から2年後
細野晴臣さんは、東京港区白金に生まれました。

育ったのは まだ 焼け野原が残る街でした。

急激に入って来る アメリカ文化を吸収し 細野少年は成長していきます。

とりわけ夢中になったのは アメリカのポップス、カントリー、そしてロックでした。

細野晴臣:

もう何にも考えずに、もうアメリカの音楽に没頭してましたね。
ネガティブに言えば、植えつけられた音楽だし、でも、それは凄く素晴らしいもんだし。

面白かったから吸収したわけでね、いやだったら拒否しますから。
自分の中に、こう 血になり肉になりっていうか、美味しい果物を食べたようなね。

あのぉ 毒かもしれないけど、おいしい果実を食べてるの。

(語り)原田知世:

立教大学を卒業した細野さんは「エイプリルフール」でデビューします。
オリジナル曲はアメリカの最先端を意識したサウンド。

歌詞も英語でした。

しかし、たった一年で解散。
細野さんは新しい音楽を模索します。

細野晴臣:

聴けば聴くほど、彼らのルーツを大事にしている姿に影響されて"あ、そうか 自分たちもルールを引っ張り出してこないと、おなじ様にいいものが出来ないんだと" いう事を教えられて「はっぴいえんど」でやりだしたわけです。

(語り)原田知世:

翌年 細野さんが結成したのが「はっぴいえんど」
このバンドが日本の音楽シーンに衝撃を与えます。

■ 「はっぴいえんど」と日本語ロック

~ 対談 vs.小山田圭吾~

(語り)原田知世:

小山田圭吾さん 42歳
「はっぴいえんど」の音楽を海外に紹介しました。

コーネリアスとして活動する小山田さんは、前衛的な音楽が世界的な評価を受けています。

最近はYMOのライブにギターで参加するなど、21歳の歳の差を超えて、細野さんが才能に注目しているミュージシャンです。

小山田圭吾:

最初は、やっぱ、YMOなんですよね。

そこまで、僕はのめり込んで聴いてはなかったんですけど、自分で音楽やり始めて、二十歳越えたくらいから
「はっぴえんど」とか

やっぱ細野さんの年代くらいから、ポップミュージックとか、ロックとか、そういうのって始まってるじゃないですか。

細野さんの前に、あんまりこう、歴史が無いというか

細野晴臣:

僕の前は、もう、戦争だもん。

小山田圭吾:

そうですよね。

細野晴臣:

だから、ミッキー・カーチスさんとか、ムッシュ

小山田圭吾:

へへへ(笑)

細野晴臣:

この二人が、先輩(笑)

ロックなんて日本で言われてきて、だいたい我々の世代なんだよ、ロックは(笑)
還暦はもう とっくに超えてる(笑)

今、ロックなんて言う人いないのかな?

小山田圭吾:

どうなんですかね・・・

細野晴臣:

ロックに拘ってる人って、もう、やっぱり僕の世代なんじゃない?

小山田圭吾:

ん~

細野晴臣:

ロックって、日常的に使わないでしょ、言葉

小山田圭吾:

使いますよ(笑)


(語り)原田知世:

「はっぴえんど」で細野さんはロックを日本語で表現しようという挑戦を始めます。

文学青年だったドラマーの松本隆さんに、日本語の作詞をさせました。
その言葉の使い方は、斬新でした。

証言:
松本隆:

"お正月、こたつ、かるた"みたいな、それまでの長髪でヒッピーみたいな人達からしたら、全然なんか、その人たちは目がテンになるような詩を書いたから。

で、ロックやってみようって、これが日本語のロックって言ったもんだよね。
おかしいとか、ヘンだとか、笑われたんだけども。

(語り)原田知世:

「はっぴいえんど」が歌詞で描いたのは
オリンピック以前の東京の街

細野さん達が
少年時代に見た
原風景でした。

♪風をあつめて


「はっぴいえんど」の音楽は
その後の日本のロックシーンに
決定的な影響を与えることになります。

しかし、当時は大ヒットに結びつかず、わずか3年で解散します。

細野晴臣:

聴く人に言わせると、"言葉は判るけど音楽がね~"なんて言われてね。

"そうか音楽が通じないんだ"って(笑)

で、最後、ラストアルバムでアメリカに行った時に"音楽は判る!でも言葉が判んない"

へへへ(笑)
"あっ 僕たち 居る場所が無いんだな"と

なんか、実験的なプロジェクトが一つ終わったみたいなね。
そういう事だったんじゃないかな。

~ 対談 vs.岸田繁 ~

岸田繁:

今っていうか、ここ十年くらい、ずっと自分の中で、音楽的なテーマになっている事があって。

どうしても日本語で歌うから
リズムと"つじつま"の合わせ方が・・・

♪ 東京


(語り)原田知世:

岸田さんが作詞し、歌う"くるり"は、日本語でロックを歌うことに拘ったバンドです。
「はっぴいえんど」と同様に、文学的な歌詞が高い評価を受けています。

岸田繁:

なんか、日本語で歌ってらっしゃるものも、英語で歌ってらっしゃるものも、"ああ 細野さんやなぁ"って、思う感じがあって。

細野さんとアメリカの音楽の絶対的な壁みたいなものと、どう向き合ってはんのかなって。

細野晴臣:

当時は、聴くものといえば、日本のものか、アメリカで作られたものか。
子供だから、どうしても面白い方にいっちゃうから。
自分で聴いてたのは、そういう"ヴギウギ"だったりね、映画音楽だったり。

それを聴いてきて、自分で困っちゃったなっていうのが、ずっと続いてて、「はっぴいえんど」から。

岸田繁:

ふ~ん

細野晴臣:

ブルースが好きだし。

でもブルースって、言葉のなんかこう、韻で出来ているようなとこがあるから。

日本語で歌わなきゃと思うと、のれないから(笑)
それを日本語に置き換えるとブルースって」いう意味がもう無いな。

日本の独自の音楽にならざるを得ないだろうっていう。

つまり、何か作るたんびに、いつもこう・・・・

アメリカとの折り合い付けながら、やってたのね、今まで。

でも、もう、"もう いいか"って、今は思ってて。

これから先のアメリカを見てるわけじゃないって。

そういう意味では、アメリカの幻みたいなものを、僕はずっとこう、幻にさいなまれてるっていうかな。

楽しい幻想だけど。
そういう体験が、世代が違うっていう事だろうから、気楽だという事なんだろうか。

岸田繁:

僕の父親が、今67なんですけど。

細野晴臣:

近いわ、お父さんに近いわ。
ハハハハ(笑)

■ ニューミュージックとエキゾチック

(語り)原田知世:

「はっぴいえんど」解散後、細野さんは、初めてのソロアルバムを発表します。
26歳でした。

しかし、雇われのスタジオ・ミュージシャンとして生計をたてる日々が続いていました。

そんな細野さんの前に一人の天才少女が現れます。
荒井由実さん。

ユーミンのデビューを支えたのが、細野さん率いる演奏家集団「キャラメル・ママ」でした。

アレンジを依頼された細野さんは演奏技術を尽くして、当時の最先端、洗練されたシティ・ポップスを生み出します。

証言;
松任谷由実:

全く、無い音楽だったと思います。
それは、私の作品や声っていうだけじゃなくて、ほんとにサウンドによるところが大きかったですね。

いっしょにセッションした時も、ベースをされてるっていうより、全部、ラインを作曲されてたような。
細野さんの、多分人間性にも繋がるかもしれないけど、独特の浮遊感が、あると思う。

(語り)原田知世:

ユーミンの歌と細野さん達の洗練されたサウンドは、当時まだ歌謡曲が主流だった音楽会にニューミュージックという新しいジャンルを作ります。

ユーミンはスーパー・スターへの階段を登って行きました。

♪ 蝶々-San

70年代後半、細野さんはロックとも、ニューミュージックとも全く違う音楽をやり始めます。

細野晴臣:

流行してる音楽から、ちょっとサヨナラしたんですよね、一度ね、そこで。

クリエイトしていくっていう意味でもミュージシャンとプレイヤーっていうのは、やっぱり違いますから。

(語り)原田知世:

細野さんが、独自に生み出したエキゾチック・サウンド。
無国籍で、新しい音楽でした。

♪ はらいそ


しかし、当時主流となっていたニューミュージックに比べて注目を集める事はありませんでした。
気がつけば、30歳になっていました。

細野晴臣:

なかなか認知されない音楽をやってきたんで、スタッフもみんなも、もうヤキモキしてるような感じも伝わってきてね。

いつまでたっても日のめを見ないみたいなね。

とういう時に、そのぉ(レコード会社社長)村井さんから頼まれて、何かやってくれないか、と。
何かやるには、成功させないと、続けられない。

じゃ、どっちかだろうって、二つの道の真ん中に立ってたんですね。

だから、なんか、"かけ"をしたっていう事もあるのかな。
サイコロふったみたいな。

■ YMOとTOKYO

♪ TOKYO


(語り)原田知世:

YMO

細野さんが追いかけてきた、エキゾチックサウンドをコンピューターと組み合わせ、その衝動は、全く新しいテクノポップを生みました。

細野晴臣:

同じことの繰り返しほど、アホらしい事は無いですね。

やはり、そこに発見とかクリエイティブティなものが、常に新しく、芽生えてないと。
衝動が出てこない。

(語り)原田知世:

細野さんのYMO構想。

メンバーはこの二人でした。

証言;
高橋幸宏:

細野さんって、新しい事に、すごいアンテナとんがってる人だったんで。
そこに、教授みたいな・・・・電子ミュージックというか、当時のね、あのぉ、現代音楽も含めて、そういう音楽のパイオニア。

それから、僕みたいなポップミュージック好き、みたいな、3人の集まった、細野さんの嗅覚だったんじゃないかなって気がしますけどね。

証言;
坂本龍一:

雲の上の存在でね

たまに、何度か、演奏した事がありますけど
何かこっちも、緊張しちゃってね・・というような存在でしたね。

一応ジャンル分けすると、クラシックでもないし、現代音楽でもないし、ジャズでもないし。
日本のロックかポップスっていうようなカテゴリーに入るんですけど、その中でいて、何て言うかな、僕が勉強してきたような、近代音楽とかね、現代音楽とか、そういうものを、この人知ってるんじゃないかなって(笑)

(語り)原田知世:

結成の翌年、YMOは、いきなりワールド・ツアーに打って出ます。

♪cosmic surfin


イギリス、フランス、アメリカ
YMOが作りだすテクノポップは世界を驚かせます。
新しい音楽に敏感な海外の若者たちを熱狂させました。

そして人気は日本に逆輸入。

ワールドツアーから戻る頃には、日本でも空前のYMOブームが起きていました。

♪ RYDEEN


♪ 君に胸キュン

YMOの人気は頂点へ。
80年代、テクノポップは時代の音になりました。

そして、歌謡曲の作曲家としてもオファーが殺到します。

♪松田聖子「ガラスの林檎」

トップアイドル達に曲を提供。

♪中森明菜「禁区」

数々のナンバーワンヒットをとばします。

デビューして10年、新しい音楽を作りたい。
細野さんの衝動から生まれた音楽が、ついに、たくさんの人の心を捕らえました。

しかし・・・・・

人気絶頂の中、突然の散開
惜しまれながら、細野さんは5年間の活動にピリオドを打ちます(1983年)。

♪RYDEEN 1983/12 武道館


細野晴臣:

疲れ果てて・・・・・

芸能人のような

感じになっちゃいましたから(笑)

音楽にとどまんなかったですよね
カルチャーとして捉えられていたから。

なんかのキャラクターになってしまった訳で。

やりたい事が制約されてきた。

っていうのは"RYDEENのような曲をまた作ってくれ"と
言われることが出てきて

同じことが二度出来ないんですよね。
繰り返しが出来ない。

商売じゃ無い、そこらへんが割と、青二才というかね、
音楽ばっかりの事、考えてたんで。

えぇ・・・・・

それで、イヤになっちゃったんですよ。
結果はね・・・

~ 対談 vs.小山田圭吾 ~

小山田圭吾:

細野さん、ほら、キャリアも長いし、いろんな音楽をやってらっしゃるじゃないですか。

細野晴臣:

もう、やりすぎた(笑)
ハハハハ(笑)

小山田圭吾:

僕、タイムアウトかな、なんか雑誌で、外国の人に聴かせたい日本の音楽っていうのを5曲選んでくれって言われて、それで、「風をあつめて」を選ばせて頂いたんですけど(笑)

細野晴臣:

実はね・・・・

ニューヨークだったかな・・・・
20代かな、あれ。

4~5人いたんだけど、兄弟の二人が、僕に声かけてきて

いきさつは、忘れちゃったけど、とにかく「風をあつめて」を歌ってくれたの
ハハハハ(笑)

小山田圭吾:

ハハハハ(笑)
凄いですね!

細野晴臣:

だから、"あれ?"って思うことあるよ。
「はっぴいえんど」もね、たかだか数年やっただけで、解散して、もう忘れちゃうわけだよ。

次の自分のアルバムどうしようか、とかね。

で、何十年か経ったら、追っかけてくるんですよ。
"えっ"と思ったんだよ、最初の頃。

「はっぴいえんど」追っかけてきたよ。

「はっぴいえんど」だけじゃなくて、YMOも解散したはずなの。
でも、十何年か後に、再結成みたいなアルバム作って。

そこでやっと終わったと思ったの。

したら、今もやってるのね(笑)
なんで(笑)

なんでなんだろう・・・
追っかけて来るっていうか、やった事が消えない。

だからこそ、あんまり考えたくない。

フリッパーズギターの時は、いくつだったの?

小山田圭吾:

デビューしたのが二十歳

細野晴臣:

二十歳?
じゃもう、YMOの後期だね

小山田圭吾:

そうですね、もう無いですねYMOは・・

細野晴臣:

無いか!

小山田圭吾:

細野さん、アンビエントとかに、行くぐらいじゃないですか。

細野晴臣:

そうですね、引きこもりですね(笑)

■ アンビエントと新しいつながり

(語り)原田知世:

YMOを終わらせた細野さんは、40歳を前に世の中から距離を置き始めます。
商業主義の音楽に疑問を感じ始めていました。

細野晴臣:

バブルな感じが凄く、違和感があったりして。

要するに、土地を売ったり、買ったり、転がして儲ける人達に、凄く僕は、違和感を感じてて。

(語り)原田知世:

それまで、周囲にいた人達から離れた細野さんは、日本の霊地を巡る旅に出ます。
さそったのは、人類学者の中沢新一さんでした。

証言;
中沢新一:

このまま、いったら、戦後突き進んできた日本っていうのが、どんどん自分の足場を突き崩されて。
日本人そのものが、これから先、地に足をつけて歩けなくなっちゃうんじゃないかっていう位の恐怖感が二人にあったのね。

それで、旅をやったんだけど・・・

(語り)原田知世:

いわば、巡礼の旅
伊勢神宮、そして富士山

スピリチュアルな旅の中で
もう一度、自分の心の奥を見つめ直した細野さんに、新しい音楽への衝動が芽生えます。

辿り着いたのは、それまでとは全く違う音楽
アンビエント

歌詞もメロディーもない。
刺激的なイントロも、盛り上がるサビも無い。

ただ、抽象的な音の響きだけが、繰り返し続く、静かで穏やかな音楽。

細野晴臣:

アンビエントは環境音楽なんて言われてましたけど、ほんとは、内面の環境なんですよね。

僕の感覚では、海の上を、こう・・・・・
ラッコのように、こうやってね(笑)
漂ってる感じですね。

そういう時の響き
脳内の響き
心の響きっていうか

だから、他の事は全部、陸地の騒ぎに聴こえちゃうんですよ。

遠い陸地でなにか騒いでるっていう
関係無いな、と。

(語り)原田知世:

一人、スタジオに籠り
新しい音の響きに没入していきます。

しかし、その頃

世界中で、同時多発的に

同じ思いでアンビエント音楽を作る人々が

存在していました。

細野晴臣:

ドイツ、イギリス、アイスランド、オーストリア
あそこらへんが多かったですね。

だから、名も無い人達 だけど素晴らしい音楽がいっぱいあった。

要するに消費される音楽じゃない。

コミュニケーションなんですね。世界との。

だから、アンビエントの時代に経験したのは、音楽は商品っていうよりも、何か、心の伝達手段なんだっていう。

心っていうか、その個性ですよね
センスとか
世界観とか

だから、自分は"こういうものです"っていう名刺を出すんじゃ無くて、

一人ひとり音楽をね、聴かせてくださいと、いう事なんですね。

(語り)原田知世:

21世紀に入って、細野さんは、YMOのメンバーと再び活動を始めます。

アンビエントの時代を経て、その音も変化しています。

証言;
坂本龍一:

昔のYMOをやってる頃が、テクノポップなんだ、一番進んでるんだと、
今まで培ってきた、いろんなスタイルとか、テクノとかっていうのを一旦捨てて

全く新しい音楽をやるんだという気負いっていうのかな、とても強かったですよね

それだから、前に進めたわけです。

今はもう、テクノである必要はないし、"なになに・なになに"という看板はもう、全部無くなって、肩の力が抜けてるので、持ってる全部の引き出しをあける状態・・・

細野晴臣:

なんか、一廻りするんだと、いう実感があったことは、あったんです。

だから、人生は一直線じゃなくて、螺旋を描いて廻ってるんだと。

同じとこに居るようで、上から見ると同じでも、横から見ると、螺旋なんで、違うとこに居るんですけど。

二次元的にみると同じとこに居たりするという。

■ 新しい歌と「3.11」

(語り)原田知世:

去年11月
細野さんは、新しいアルバムの制作に取り掛かっていました。

(スタジオ風景)

大切にしたのは、人が奏でる生の楽器と声

全曲 自分で歌っています。

全ての中楽器の響きに、特に拘りました。

細野さんの声に重ねるコーラス。
様々な歌手が呼び集められました。

自分で作ったメロディー

細野さんが生まれる以前のアメリカ音楽のカバー

63歳の細野さんが、今歌いたい歌を12曲集めました。

~ 対談 vs.小山田圭吾 ~

細野晴臣:

全部 生でやってるのは、どうなの?
大幅に、昔に戻っちゃった感じしない?

小山田圭吾:

確かに、サウンド自体はビンテージですけど、響きはやっぱり、凄い新しいし。

いろんな時代の細野さんっていうのが、やっぱり、この中には入ってるなぁ
今の細野さんだなっていう感じが凄くしました。

細野晴臣:

例えば、カバーってやってるけど、

なぞってる訳じゃなくて、知らない音楽を自分の感覚に取り入れたいっていうね

なんかこう・・・・自分では判らない、音楽っていうのがあるわけだから。

それを、どうやったら出来るようにんるんだろうっていう、事が面白いんだよね。

だから、同じ事をやるっていうのが、一番難しいし、出来ないよね。
だいたい、出来ない。

でもさ、やる事は一杯あるでしょ?

やりたいこと。

小山田圭吾:

ん・・・・・

細野晴臣:

どうなの?

小山田圭吾:

まあ、ありますけどね。

細野晴臣:

僕もね、一杯あったの。
小山田君の年齢の頃から、まぁ、最近までは。

でも、やりたい事の一割位しかできないんだよね。

い~っぱい、あったんだけど。
でも自分で出来る事って、その中の一割・・・もっとあるかな、三割くらい(笑)

三割三分三厘くらいかな(笑)

小山田圭吾:

(笑)

細野晴臣:

だから、まだ時間があるから、どんどんやって欲しいなって思うけどね。

遅いよ!ソロ!(笑)

小山田圭吾:

ハイ(笑)

細野晴臣:

人のこと言えないけど・・・


(語り)原田知世:

アルバム製作作業を全て終えていたこの日

東日本大震災が起こりました・・・・

(3/11 東日本大震災ニュース映像)


地震から一カ月の間

音楽に全く触れられなかったという細野さん

3月に予定されていたライブは中止し、この日(4/10)に延期していました。

一月ぶりに会って、お話を聴きました。



フタッフ:細野さんは、この一カ月くらい、どんな事を考えていましたか?

細野晴臣:

いや、もう・・・・

日本地図広げて、どこに原発があるかとかね、そんな事ばっかりですよ、毎日。

恐怖っていうか、もう、ちゃんと自衛していかないと

生きていけないんじゃないのって思ってね。
この国で。

そのくらい、切羽詰まって、あのぉ・・・・

っていうのは、まだ終わってないからね。

だから、ずっと考え続けるっていうか、こう・・・・

基本的な生き方を、こう、決めなきゃいけない。

そこまで

考えてますね。

フタッフ:それは、音楽家としての・・・

細野晴臣:

まあ、そうですね。

んん・・・

音楽家はどうやって、暮らしていけばいいんだろうって、いうね。

んん

(語り)原田知世:

震災で、全てが変わってしまった。

その戸惑いを

細野さんは客席に語りかけました。


(東京青山Cay ステージ)

細野晴臣:

今も、ちょっと思考停止状態
自分も含めて

だって、いい天気で街歩くと

夢だったのかなって、思っちゃうでしょ。

でもね・・・

やっぱり忘れられないね。
あの、揺れは。

忘れない方がいいと思うんでね。
これからの行動に結びついてくるんで。

何が、どうなるか、判らないですけど

いろんな、行動の変化が
多分、みんなにも
訪れると思う。

それが、いい方向に
行くように
とにかく、祈るしかない
今・・・

じゃ、もう、今日は歌ってきた歌、やめてスマイルで終わろうか・・・

ハハハ(笑)

(語り)原田知世:

最後に歌ったのは、

チャーリー・チャプリンのスマイル
1930年代、大恐慌のアメリカで希望を与えた曲です。

♪Smile




Smile even though your heart it is aching
Smile even though it's breaking
When there are clouds in the sky
You'll get by

If you smile through your fear and sorrow
Smile and maybe tomorrow
You'll see the sun come shining through for you

Light up your face with gladness
Hide every trace of sadness
Although a tear may be ever so near

That's the time you must keep on trying
Smile, what's the use in crying
You'll find that life is still worthwhile
If you'll just smile

Smile...

スマイル
胸が苦しくても微笑もう
たとえ傷ついても微笑もう

空に雲が立ち込めても
君ならきっと切り抜けられるから
怖い時にも悲しい時にも微笑むことを忘れず

微笑み続けたなら 明日には
お日さまが君のために輝いてくれる
喜びに顔を輝かせて

悲しみの影をみじんも見せずにいよう
たとえ今すぐにも涙がこぼれそうだとしても
そんな時にこそがんばり続けて

微笑むんだ 泣いたってどうにもならない
もしも微笑んだなら
人生には生きるだけの価値がまだあることを君は知るはず
微笑もう.......

~ 対談 vs.岸田繁 ~

細野晴臣:

観てる人も、参加したミュージシャンも、みんな
こういう事、前からやりたかったって声があってね(笑)

東京の街が
暗くなって

僕も、こういう中で
ともし火っていうのがね
いかに、その、心が温まるかっていう

音楽のともし火だとしたら
そうでありたいなっていう

それがあって
だんだん、こう、音楽に戻ってったっていう

岸田繁:

震災以降っていう、言い方って
便利やから、そういう言い方してしまうけど

幸せみたいな、幸福?みたいなモンっていうのが、いったい何なのか、みたいなテーマがあったら

それは、当たり前の事やなぁっていう風に・・・

気付き始めてる人も多いなと思って
僕もそうで

細野晴臣:

僕もそうなんだよ

なんか、普通のことを、これほど意識した時期はないね。

普通でいたいっていう事とか

でも、それは、今回っていうか、だんだん判ってきたのは、一番僕が好きな時間っていうのは

自分の部屋で・・・
汚いソファーに座ってね

汚いギター持って(笑)

それをつま弾いて、曲を作ってる時が・・

いちばんっの幸せなんだなって。
それを、無くさないように、レコーディングしてたの。

いつも忘れがちなんだよね。
その最初の気持ちをね。

岸田繁:

そうです・・・・
僕もそうです。

細野晴臣:

なんか、こう上手く
上手く表現しようっていう事にとらわれすぎちゃう。

そういう事が多かったから


岸田繁:

誰かが"そのまま"っていうのが・・・・

いいなって、いう風に
最近思って。

細野晴臣:

そう

そのままんが、いいよ。
無理しない方がいいんだよね。

岸田繁:

そう、無理しない方がね・・・

細野晴臣:

それが、僕のこれからのテーマだね。
だから下手でも、朴訥(ぼくとつ)でもいいから、そのことを大事にしたいなって思って。

岸田繁:

朴訥(ぼくとつ)・・・
伝わってます。

■ エンディング

(語り)原田知世:

地震から40日が経った、4月20日
細野さんの新しい音楽が
全国に届けられました。

細野晴臣:

こういう時期に出るという事の重荷の方が強かった。

でも、この時期に聴けて良かったっていう人が何人かいるんで
ホッとしてるっていう。

スタッフ:音楽の細野さんの洞察力っていうか・・・

何か今までやったことの無い表現ができそうだなっていう予感があるんですよ。

だから・・・・
自分の中の何かを、なぞるんじゃ無くて

これ何だろうなっていうような音楽がね

なんか、その・・・

出来そうな、ワクワク感っていうのが、今・・・
じょじょにですけど。

まあ、だから、これからもやっぱり、ずっと作り続けるだろうなっていう感じがします。

(語り)原田知世:

(5月1日 東京日比谷 ステージ

音楽に帰ってきた細野さんのもとに
みんなが集まりました。

♪ 悲しみのラッキースター

(語り)原田知世:

決して同じことを繰り返さず

自分の信念を貫くことで

時代を切り開いてきた

細野晴臣さん

震災で立ち止まり

自分と音楽を

見つめ直しました。

63歳

今再び、自分らしく音楽に向き合っています。


~END~





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